映画「誰も知らない」今日は何も予定がなかったので、以前から見たかった映画の一つである「誰も知らない」を、札幌に見に行った。映画館は、狸小路にあるシアター・キノというミニシアターである。 サッポロファクトリーにあるシネコンでも上映中だが、どうせなら頑張っているミニシアターで観ようと、狸小路まで出かけた。 この映画のモデルとなった事件については、かすかに記憶している。 当時は、子育て中であったこともあり、とてもショックを受けたように思う。 最近は、育児放棄、児童虐待、ネグレクトなどのニュースが珍しくもなくなってきているが、 当時はまだ現在ほどでもなく、とても衝撃的だったのだと思う。 (もちろん、現在だって衝撃的であることに違いはないが) この映画は、テーマそのものが関心分野であることと、 主演の柳楽君がカンヌ映画祭で「最優秀男優賞」をとったということもあり、その演技も見たいと思っていた。 さて、感想は・・。 うーむ、何と言おうか・・。 あまりに色々な思いが渦巻いてしまい、上映中はどうも映画そのものに浸ることができなかったというのが正直なところである。 母親に置き去りにされた子ども達が、長男を中心に助け合って生きていくわけだが、最後にはお金も尽き、事故によって妹も死んでしまう。 その間の子ども達の健気さや力強さに感動したのか、あるいはあまりにも切なくなってしまったのか、 私の周囲からは涙をぬぐう気配や、すすり泣く気配があつたけれど、私は涙は出てこなかった。 つまり、様々な怒りや苛立ちのようなものが渦巻きすぎて、感動すべき部分に浸りきることができなかったのだろう。 しかし映画館を出てからずっと、歩きながら、あるいは電車の中で様々な場面を思い出し、 色々と思いを巡らせているうちに、次第にひたひたと感動が立ちのぼってきた。 子ども達4人の演技は、信じられないほど自然だった。 賞を取った柳楽君はもちろんのことであるが、どの子の表情もとてもその年齢らしい子供らしさがあった。 ひたむきに母親の言いつけを守り、捨てられていることに内心では気付いていても、母の愛情を信じようとしている。 そして、どんな状況の中でも楽しさや喜びを見つけていこうとする。 持っている知恵や能力を振り絞って、兄弟と助け合って、自分より弱い妹や弟を守ろうとする。 そして、どんなに兄弟仲が良くても、友達と一緒に遊びたいという気持ちは押えようが無い。 それが、子どもらしさなのだと思う。 そんな子どもらしい生命のキラメキが、確かにあの映像の中にはあったと思う。 それなのに、私は映画を見ている間は、そのきらめきに目を向けるよりも、 母親や周囲の大人たちへの憤りの方が強すぎて、ひょっとすると是枝監督が伝えたかったことを受け止められなかったのかもしれない。 モデルとなった事件の子ども達は、もう社会人となっているはずだ。 どのように生きているのだろうか。 それを考えながら、以前読んだ「"It"と呼ばれた子」を思い出していた。 今日の映画もそうだったけれど、どんな悲惨な状況にあっても、他人を思いやる心や愛する心を失わずにいられるのは、親から確かに愛された幸せな日々があるからだと思う。 子どもの出生届も出さなかった母親であっても、しっかりと子どもを抱きしめ、子どもをひたむきに守ろうとした日々が確かにあったからこそ、あの子達は母親を信じ、自分を信じて生きていたはずだ。 モデルとなった事件の子ども達も、そうであって欲しいと祈る思いだ。 そしてまた、自分ならどうするだろうと思う。 同じアパートの住人、大家、ガス会社・電気会社の人たち、 いつも行くコンビニの店員、店長、 公園で洗濯や水浴びをする子ども達をみかけた地域の住人、 電車の中でボロボロで汚れた身なりの少年と隣り合わせた人、 誰もがきっと、「あれ?」くらいは思ったことだろう。 中には、「母親がずっといない」と知った人もいる。 彼らのことを「誰も知らない」というよりは、 「誰もが知らないフリをした」のだ。 私がそうではないとは言い切れないことに、とても心が重くなる。 映画館の中で渦巻いた怒りや腹立たしさは、そのまま自分に向うものなのかもしれない。 本当に、私ならどうするだろうか。 そして、これを読んで下さっている皆さんなら、どうなさいますか? (2004年09月03日) |